AZ-1とは
~AZ-1はなぜ生まれ、そしてなぜ悲運を辿ったのか~
2008年9月15日 記
2008年、アメリカの金融機関はサブプライムローン問題で軒並み巨額の負債を抱え、アメリカ全土が不況に陥った。サブプライムローンは不動産価格が上昇し続けることを前提に一時的にアメリカに好景気を産み出した。人々は支払いすら済んでいない自分の家を担保にさらに金を借り、高級車を購入したりした。しかし不動産価格だけが永久に、無限に上昇するはずはなく、限界点に達した時点でシステムは一気に破綻した。急激に成長し過ぎたものは急激に沈む、そんな様相を垣間見た気がした。
実はこれと全く同じ事象が日本でも過去にあったのだ。それは18年前に遡る。1990年前後の「バブル景気」だ。バブル景気とは、水の泡のように、いずれ消えてなくなる儚い夢物語のようなもの、と言う例えから来ており、どちらかと言うと事後に付けられた名称だ。1987年頃から始まった日本のバブル景気はやはり不動産の価格上昇が好景気の主体となった。その上昇たるや、単に不動産を右から左に転売するだけで価格が倍々に跳ね上がっていくという、市場原理を無視した状況でもあった。それによって生まれた多額の"泡銭"は高級品市場へと流れた。それまでは手の出なかったような高額品が飛ぶように売れた。高級車もまたしかり。(まだ車にステイタス性が存在していた時代でもある) 特に一流外車はその対象となった。タマ数の少ないフェラーリF40などは希少価値が付き車両価格が数億円にも跳ね上がった。F40は当時まさしく「バブルの象徴」となった。(もちろんF40自身に罪はない) またフェラーリ・ディノ、デイトナ等のビンテージカーも存分に売れた。レストア修復に数百万円かけるのもざらだった。歴史上の名車を優雅に所有するという海外富豪のブルジョア生活に憧れていたのだろう。
飛ぶ鳥を落とす勢いとなった日本は国産車も高級車が続々と売れた。時流に乗って登場した日産シーマは一時は王者トヨタ・クラウンを脅かす程の注目を浴びた。当時これは「シーマ現象」と呼ばれる。スポーツカーも続々と高級車が登場した。日産スカイラインGTR(R32~世代)、ホンダNSXなど500~1,000万円もするスポーツカーでも人々は躊躇することなく飛び付いた。その他ソアラ、プレリュード、シルビア、スープラ、RX-7などの2ドア・スペシャルティ、スポーツカーが隆盛を誇った時代でもある。実用1BOXカー世代の現代となっては信じられないことかもしれないが、車内の狭い2ドア車が最も幅を利かせていたのだ。実用性もないのに?・・いや、実用性や生活感がない車の方が格好いいと思われていた時代だ。無駄に高い車を持っていた方が成功者の証、と評された時代である。「無駄の美学」とも言えようか。昨今の"効率化"、"エコ"とは無縁の、"イケイケ"の時代だった。
もちろんスポーツカーや高価な高性能車が好まれた理由は純粋に他にもあった。2008年北京オリンピックの革命的競泳水着レーザー・レーサーではないが、自動車の本来の動力性能、運動性能を突き詰めていくと、空力、軽量化、重量バランス・・それはスポーツカーという形状に辿り着く。人々はそれを優先課題として追い求めた。携帯電話やインターネット、ケーブルTV等の娯楽が殆ど存在しない時代である。人々の関心事は限られ、自動車という趣味、自動車に対する操作技術に全身全霊を捧げる人が多くいたのも事実だ。合法、非合法含め自動車の動力性能や走りのステージで上を目指す、スポーツカーはそんな人間の向上心に応えるまぎれもないアイテムに位置していた。
そうした物欲派、趣味派が交錯する中、日本の軽自動車カテゴリーにおいてもバブル景気に呼応し「キワモノ」が世に登場し始める。「軽自動車2シータースポーツカー」群だ。好景気の最中、軽自動車業界も黙って指を咥えて見ている訳にはいかない、そんな思惑が見え隠れしていた。ホンダの2シーター・ミッドシップ・オープンカー「ビート」の登場を皮切りに、スズキも高級外車顔負けの3WAYトップFRスポーツ「カプチーノ」を世に送り出した。見た目も車体構成も"まんま"一流スポーツカーのそれを踏襲した。それを軽自動車枠の中で実現した。一般的に考えると日本特有の規格である「軽自動車」の存在意義は、維持費が安く、生活の足、身の回りの仕事として実用的に使えること、に尽きる。(日本にゴマンと走っている軽1BOXや働き者の軽トラックがその最たるもの) ゆえに自動車のステイタス性の観点から見ると、その対極に位置するカテゴリーである。そこにあえて実用性を度外視した2人乗りの軽自動車スポーツカーを創出した。更に言うと一般的な普通車のスポーツカーと比べても660ccしかないため遠くにドライブに行ける訳でもない。寸法制限のある車体はトランクも狭く荷物も積めない。普通車スポーツカーよりも更に実用性がなかった。では実用性を犠牲にしてステイタス性を確保できたか?と言うと、そこは"しょせん"軽自動車であって、それも無理な注文であった。今冷静に考えると実に中途半端な存在だったと思える。
但し前述の「無駄」の観点から言うと、それだけは持ち合わせていたということになる。量産効果は元々見込めない、造りも専用部品が多いということで車両価格は無駄に高額だった。ビート、カプチーノの車両価格は当時140~145万円もした。当時のカローラ1500の最上級グレードが137万円。スポーツカーのユーノス・ロードスター1600でも170万円。そんな普通車の価格帯に肩を並べ、肉薄した。最早軽自動車を買う、という価格ではなかった。しかしそのような無意味なプレミアム性におしみない投資を行うことが「プチ富の象徴」と当時の雰囲気にマッチしたか。もしくは純粋に評価すると今までには存在しない、ラジコンを自分で運転するような"おもちゃ"感覚が興味を引いたのではなかろうか。つまるところそのような動機にもポンとお金を出す余力が当時の日本人にはあった。メーカも今ならリリースして売れると目論んだ。
実際ビートとカプチーノは人気を博し、売れた。ビジネス的には成功か、もしくは少なくともこの2車は元は取っただろう。売れた要因は他にもあると思う。好景気とは言えさすがに本物のフェラーリやランボルギーニを買えない人、もしくはそこまで買ってもしかたのない人は、そのテイストを少しでも持ち合わせている軽自動車スポーツカーを買って、適度に楽しんだと思う。または家族がいて無駄遣いはできないがスポーツカーの醍醐味を味わってみたい人も、良き選択だったと思う。実際運転していてそのキャラクターはまさしくスポーツカーそのものであった。雰囲気を適度に楽しむには手頃な存在だった。デメリットである実用性がない面も、まあ軽自動車と割り切れば大きな問題ではない。維持費は軽自動車の特権を使い安く済む。セカンドカーとして買えば実用性など関係ない。また、その他人気の出た理由として、その意外性があったようにも思う。「軽自動車でまんまスポーツカー」という、パロディのような存在が冗談半分で"ウケた"のではなかろうか。ウケ狙いで流行の物を買う、そんな遊び心の豊富な人もいたと思う。
但し冷静に考えるとそのウケ狙いという要素は、持続性が短いとも言える。それでは人気の持続は難しい。また、セカンドカーで買ったにしろ、もしくは1台目で実用性のない車を買ったにしろ、いずれ手放される境遇は強かったと言える。それらを覆す程の商品力はさすがになかった。その"とんがった"性格から、口コミで大きな一般顧客層に波及していくような存在とはならなかった。いわばマーケティング理論のセグメンテーション戦略で言うところの「スキミング層、イノベータ層で終わり、以上。」みたいな感覚だろうか。その後の大きなフォロアー層、ペネトレーション層の顧客につながっていかない。更に言うとその僅かに存在した上位層でさえも、バブル景気だったからこそ存在できたという面はある。
前置きが非常に長くなってしまったが(汗)、ここでいよいよ本題AZ-1の登場だ。AZ-1は、ビート、カプチーノに続き、2匹目のドジョウならぬ3匹目のドジョウを狙って開発されたマツダの車である。開発は他車より先に始まったのかもしれないが、結果的にバブル期軽自動車スポーツカー3台中、一番最後にリリースされ、トリを務めることとなる。AZ-1の開発コンセプトはライバル2車のキャラクターを更に凌駕するかの如く際立ったものとなる。ドアはランボルギーニ・カウンタック張りのガルウイング・ドア(上に跳ね上がる)を採用。ボディはレーシングカーさながらのフル・モノコック構造を踏襲し、外板は全てプラスチック・パネルという度肝を抜いた仕様となった。先行したライバル2車をスポーツカーの領域に定義するならば、AZ-1はその上のカテゴリー、"スーパーカー"の領域に達した。(もちろん軽自動車におけるパロディだが)
そのような位置付けで登場したAZ-1であるが、それは決して見かけ倒しではなく、動力性能も最高レベルだった。当時軽自動車最強のアルト・ワークス系のF6A DOHC 4VALVE INTERCOOLER TURBOエンジンをミッドに搭載。全高1.15mの空力ボディと相まって最高速度は180km/hオーバー。エンジンが搭載されていない超軽量フロント・セクションは、ロック・トゥ・ロック2.2回転(片側に1.1回転しか回らない)のクイック・ハンドルと、ショート・ホイールベースの作用で、カミソリのような切れ込みを誇った。コーナー立ち上がりはミッドシップ荷重でLSDいらずの強力リヤ・トラクションを得た。日本のタイトなワインディングではその辺の2,000cc級スポーツカーを楽に追い回せる程の動力性能を誇った。まさしく"ライトウエイト・スポーツカー"の醍醐味を味わえる存在だった。こうしておしげもなく開発費用を投入して作られたスーパー軽は、車両価格も3車中最高額となった。150万円。高い方が偉い、そんな時代にマッチはしていた。実用性は3車中最も無視され、ラゲッジ・スペースは皆無(トランクがない)、なんと車検証を入れるグローブBOXさえもなかった。行き着くところまで辿り付いた、そんな様相を呈していた。
期待を背負い、満を持して登場・・となるはずだった。自動車の作り、性能としては何の抜かりもない、完璧なものに仕上げたのだから。真打ち最後に登場、という出番のはずだった。マツダの当時の販売店名を冠に付け「オートザムAZ-1」として華々しくデビューを飾るはずだった。しかし時既に遅し。"バブル崩壊" 世の中の状況が一変したのだ。AZ-1デビュー・イヤーの1992年、それはバブル崩壊が始まった年でもあった。1987年頃に始まったケタ外れの不動産活況は5年を経過してその構造に限界を生じ、臨界に達した時点でまさしくバブルがはじけるように一気に瓦解する。時を謳歌していた投資家は、不動産価格や株価の暴落で逆に大きな負債を抱え込むこととなる。その波はすぐに自動車市場にもやってきた。高級車は手のひらを返したように売れなくなった。実用的に使えない無駄な車も同様だ。ビンテージカーはただの"ボロい"車になった。国産スポーツカー部門はまだ被害が少ない方で、平静を保っていたが、バブルの申し子とも言うべきAZ-1だけはその波に真っ先に飲み込まれた。180度変わった景況感はAZ-1の登場を「前世の遺物」と見る。いや、見向きもされなかった。何を好き好んで150万円もする軽自動車を買う奴がいるか? そんな雰囲気が漂っていた。今風に言うとAZ-1の存在は"空気が読めていない"とでもなるだろうか。もちろんAZ-1自身に罪はない。作り出したのは我々人間だ。企画、開発は数年前から始めるもの。それをリリース時の経済状況を正確に把握して進めろと言っても、半ば無理な注文だ。ましてやバブル崩壊という天変地異のような変動など一般人には読めない。いや、エコノミストや金融機関のプロでさえも読めなかったと言わざるを得ない。読めていたら金融機関自らが潰れる程の大きな負債は抱えていないだろう。今回のサブプライムローン問題を見て思った。金融投資とはある意味プロでも一か八かのバクチをやっているようなものなのだと。こうなるとギャンブルとなんら変わることはない。
波乱の幕開けとなったAZ-1だが、それでもデビュー当初はバブル景気に直接関係ない人や、純粋に車が好きな人によってぼちぼち注文が入った。しかしそれもすぐに終わった。その後は細々と、そして健気に販売を継続するが、1995年に人知れず販売は中止となった。累計販売台数は4,000台強。同じ軽自動車のスズキ・ワゴンRが毎月1万5千台前後も売れている数字から見れば、それはまぎれもなく失敗だった。4,000台では開発コストも回収できなかっただろう。「バブル崩壊」「短期的商品」その他様々な要因があったと思う。もう一つ、付け加えて売れなかった理由を挙げるとすれば、AZ-1は日本人の"慎ましやか"、"奥ゆかしさ"の精神に合わなかったのかもしれない。その要因はガルウイングドア。さすがに普段の街中では開けて乗り降りするのは恥ずかしい、と。よっぽど個性を大事にする人にしか売れなかった。ここでただでさえ少ない顧客層を更に半減させたのではなかろうか。(実際通常のドアのカプチーノはその後も継続して売れ続けた) とにかく結果的にAZ-1は当初のその期待とは裏腹に悲運の道を辿った。
あれから約16年、現在はそのAZ-1の苦労、不運をねぎらうかのように、一部のファン達によって手厚く保護され、AZ-1は生き続けている。今では同じ趣を持った軽自動車2シーター・オープンカー「ダイハツ・コペン」が発売され、ささやかではあるが人気を得て肯定的に見られている。それが個人的は、その先輩達とも言えるバブル期軽自動車・異端児達へのせめてもの救いと思っている。いや、実は慰めなどはいらず、ひょっとすると平々穏々とした今日の平凡な日本から見れば、バブル期を生きた車、人達というのは、ある意味その生き様を波乱万丈に、太く短く、一度きりの人生をとても豪快に、ドラマチカルに生きた幸せ者かもしれない。
AZ-1
- Why was AZ-1 born, and why did AZ-1 encounter tragedy -
September 15, 2008 Reports
In 2008, the American financial institution held a large amount of debt by the subprime loan shock, and U.S.A. fell into recession. The subprime loan brought prosperity temporarily in U.S.A. The people borrowed money with home as a security, and they purchased luxury car. However, it become impossible by the collapse of the subprime loan. I watched sudden rise and fall.
there was a phenomenon just same as this in Japan. It was 18 years ago. It was " bubble boom " in about 1990. The bubble boom means that it disappears like foam immediately. it was named after. The subject of bubble economy was property investment, too. As for the rise, a price jumped up to double only to resell real estate. It was insane. A large amount of easy cash was used in a luxury market. Expensive products were selling hot cakes. The Luxury car, too. The first-class importded car became the target. Ferrari F40 prices jumped up to millions of US dollars. F40 became " the symbol of the bubble ". (Of course F40 is guiltless himself) The vintage cars sold, too. such as Ferrari Dino, Daytona. It took tens of thousands of dollars in the restoration. It would long for the life of the overseas millionaire who owned a vintage car.
In hot Japan, the domestic luxury car sold one after another, too. New Nissan Cima threatened a king Toyota Crown. This was called "Cima phenomenon" in those days. A luxury sports car appeared, too. The people bought the expensive sports car which cost 50,000 - 100,000 US dollars such as Nissan Skyline GTR (R32), and Honda NSX. It was a sports car boom such as Soarer, Prelude, Silvia, Supra, RX-7. It may be an unbelievable thing, because it isn't practical. But it was cool nothing practical utility in those days. A car expensive idly was more splendid. May it say "the aesthetics of waste"? It was unrelated to the promotion of efficiency of these days.
Of course there was the reason why a sports car and high performance car were liked purely. The revolutionary racing swimsuit "Laser Racer" of 2008 Beijing Olympics is so, too, when it pursues running performance as the car, aerodynamics, light weight, weight balance, it reaches the conclusion "sports car". It is the times when there isn't almost the entertainment such as a mobile phone, internet, and the cable TV. The hobby of people was limited. It is a fact that there are many people giving a body and soul to running fast by car. Legal or illegal implication, it is devoted to running a car fast. The sports car was an item in response to such human spirit of self-advancement.
In such status, " the heretic car " begins to appear in the field of Japanese micro car. It is a " Micro 2 seater sports car ". In the middle of boom, the micro car industry had to do anything, too. First, Honda 2 seater midship open car " Beat " appeared. Next, Suzuki 3 way top FR sports " Cappuccino " appeared. It is the real sports car at the look and body layout. It was realized in the micro car regulation. The Japanese oridinal categoly " Micro car " is a low maintenance cost car, and to use practically (Micro 1BOX car, micro truck ). It doesn't have a status symbol. It released the 2 seater micro sports car which disregarded practical utility daringly there. Engine displacement is only 660cc (40 cu.in.) , so it cannot go far away. Trunk space is very small, so it cannot carry luggage. Was it possible to get status ? It is impossible order because it is after all a micro car. It may have been half-finished existence.
However, it had only the aesthetics of waste. It can't the economies of mass production. The structure had many exclusive parts, so the vehicle price was large. The vehicle price of the Beat, the Cappuccino became 13,000 - 13,500 US dollars. In those days, top grade of Toyota Corolla 1500cc (90 cu.in.) was 12,000 US dollars. Eunos Roadster 1600cc (97 cu.in.) was 15,000 US dollars. It wasn't the price of the micro car anymore. Was it " a symbol of the petit wealth " in those days? It may have been interested the feeling of radio control toys driving. Then Japanese had surplus energy, and could have bought it. The manufacturer estimated to be able to sell.
The Beat and the Capputino won popularity and sold as expected. It was successful, or I think it could recover the cost. It thinks that there was the reason that sold for others. It was a prosperity, however the people who didn't need to buy Ferrari or Lamborghini, they may have enjoyed with the micro sports car. The person who are caring family amused himself by micro sport car. The micro sports car surely had a real sports car taste, so just fit to their minds. If they bought it as a second car, it was no-problem even if nothing utility. The parody concept might be a hit.
But the popularity doesn't continue long such a concept. Second car situation is an uncertain ground, and hardly usefull first car, too. Popularity effect was small. Such like it had ended only the skimming and innovator layer in the segmentation strategy. Even by the upper layer was possible to exist by the grace of the bubble boom.
An introduction became quite long, it is the appearance of AZ-1 finally more. AZ-1 is the car of Mazda which was developed aiming at the last champion. The development may have led from the other car, as a result, it appeared last. The development concept gets to stand out as if it surpasses the two rivals. The door adopted gull wing door (jumping up above) just like the Lamborghini Countach. It had the structure of full monocoque body like a racing car. Body panel were all FRP Panels. It was an amazing spec. If two rivals are category of sports car, AZ-1 attained to super car. (but of course, it's a micro car parody)
Also, it is not specious, the machine performance was a very high. The most powerful engine in micro car class " F6A DOHC 4VALVE INTERCOOLER TURBO by the ALTO WORKS " was shipped to mid of body. Body hight was a only 1150mm (45.3 in), Max speed was 180km/h (112mph) over with aerodynamics body. Handling were very quick response with ultra light front section and quick handle which ratio is lock to lock 2.2 rotation ( one side rotation is only 1.1 ) and short wheel base. Acceleration in winding were very sharply with mid shipped traction no less than built-in LSD (Limited Slipp Diff ) car. It was the best performance in tight winding field in Japan. It was a real "Light weight sport car". In this way, the micro super car which had invested abundantly in development costs was became a top vehicle price. It was 1,500,000 yen (14,000 dollars) . Expensive price car is great, such the times. It was ignored utility. nothing trunk room. nothing glove box. It's OK in those days.
It should appear dramatically. Because performance was a perfect. Main event player, it should be it. "Autozam AZ-1" ([Autozam] Mazuda's sales symbol name) should make a debut brilliantly. However, it missed an opportunity. The status of Japan was changed completely. AZ-1 debut year 1992 was a bubble burst year. The real estate activity which appeared at 1987 occured contradiction passed 5 years. when it reached criticality, it broke at one go. The speculator in bubble boom world had a big debt with real estate and stocks crash. The influence came soon to automobile market. Expensive cars cannot be sold. Not useful cars, either. Vintage cars were became ordinary old car. Domestic sports car had kept to sell somehow or other, however AZ-1 which like a child of bubble was swallowed at once. AZ-1 seemed "The relics in previous existence" in the reverse business conditions. Is it possible to be buying the car which is now by 1,500,000 yen (14,000 dollars) ? It had such an atmosphere. Of course, AZ-1 is guiltless. it's a human being that it created. The development is, beginning at several years before. Even if read the time to sell, it's an inpossible order. Moreover the change which like falling from heaven to hell at bubble breakdown. Even an economist and the professional of financial institution weren't able to predict this. If it was able to guess, it doesn't have the big debt as financial institution destroyed himself. Even a professional of the finance investment seems to do gambling.
Disturbance opening, however at debut first, the order entered with the people who were unrelated to bubble boom, and the people who like a car purely. However it ended immediately. After that it barely continued sale, but it ended in 1995. Total numbers of sales is 4,000 or more. It was a bungle compared with "SUZUKI WAGON-R" which delivered 15,000 cars every month. At 4,000 cars, cost will not been able to be collected. "Collapse of bubble boom", "Short term product", and someone might be happened. It may not have matched Japanese "courteousness" simply. Still when it can't ride the gull-winged car in the city. Anyway, as a result AZ-1 traced the way of the misfortune.
About 16 years from that days, AZ-1 lives today with AZ-1 fan. Now same character of micro sports car "Daihatsu Copen" is delivered and have a little favorate. I think that this things are good massage for micro sports cars in those days. A car and people who lived in a bubble, it may be the happy person who spent the stormy, dramatic life.
参考データ
【図1】国産2ドア専用車 1981-2007 新車販売(登録)台数推移
出典)社団法人 日本自動車販売協会連合会(自販連)
「新車登録台数年報」第8~31集
※上記をベースに独自集計
集計条件)
・輸入車、軽自動車を除く。
・集計した2ドア専用車の通称名は、表1を参照。
・2ドア&4ドア混成車は集計から省いた。集計不能のため。
(カローラレビン、スカイライン2ドア等)
集計結果)
・2ドア専用車の新車販売台数は、バブル期1990~1991年の年間約28万台をピークに年々減少し、2007年は約1.5万台まで減少している。これは国産乗用車総計の減少幅よりも著しく大きい。
グラフ値、参考値)
【表1】2ドア専用車 1981-2007 通称名別販売台数、年別販売台数
【表2】2ドア専用車 1981-2007 年間販売台数 通称名別ベスト10